2026 年 版
がんの治療がひと段落し、少しずつ日常を取り戻しはじめた頃、私の心に浮かんだのは「またバンコクへ行きたい」という願いでした。それは、単なる旅行への憧れではなく、心のどこかでずっとあたため続けていた小さな灯のような想いでした。
バンコクは、がんを罹患する前に12年間暮らしていた、私にとっての“第二の故郷”です。治療中のつらく苦しい日々の中、何度も何度もあの街の風景を思い出していました。熱気と活気、湿った風の匂い、屋台のにぎわい、まばゆいオレンジ色の夕焼け。「またあの場所に行きたい」「もう一度、あの頃の自分に会いたい」そう思うたび、過去への郷愁だけでなく、「きっと、また立ち戻れる日が来る」という小さな希望が心に灯っていたように思います。
大きな病を経たことで、かつて当たり前だった風景が、遠いもののように感じられていました。治療は想像していた以上に過酷でした。抗がん剤による副作用や手術、そして自分の体や心の変化。思うように動けない日々が続き、「もう旅行なんて、無理かもしれない」と何度も心が折れそうになりました。ひとりで旅に出る勇気なんて私には残っていないと、小さなことに不安を感じ、未来を描くことが怖くなる…そんなふうに感じていた時期も、確かにありました。
少しずつ回復の兆しが見えはじめ、治療から2年が経ったある日、私は思い切ってバンコク行のチケットを予約しました。それは、自分だけのために、自分の意志で選んだ、自分の人生を前に進める一歩。誰かのためでもなく、何かのついででもない、まっすぐな気持ちで向き合った“わたしのための旅”でした。久しぶりの荷造りは、少し緊張しながらも、心がふわりと浮き立つような時間でした。薬は予備を多めに持ち、英文の診断書や現地の病院の最新情報も念入りに確認。体調のこと、体力のこと、予期せぬことへの備え、旅支度は身体だけでなく、心を整える時間でもあったように思います。
そして、ついにバンコクの空港に降り立ったとき。胸の奥から、静かに、でも確かに込み上げてくるものがありました。「ああ、帰ってきた」「私は本当に、ここまで来たんだ」そう思った瞬間、涙が自然と頬を伝っていました。空港の空気、街に満ちる匂い、人々の声。すべてが変わらないまま、何も言わずに私を迎え入れてくれたように感じました。バンコクの街並みを歩きながら、私は不思議な感覚に包まれていました。かつては当たり前だったこの風景が、いまはひとつひとつ、特別なものに見えるのです。それは、がんという大きな経験を経たからこそ気づけた《生きていること》の尊さ、何気ない日常のありがたさ。通い慣れた道も、見慣れた屋台も、すべてがキラキラと輝いて見えて、胸がじんわりとあたたかくなりました。「ああ、私はいま、《生きている》んだ」そう心から感じた、その瞬間の感覚はきっと一生忘れないでしょう。
旅のあいだ、ひとりで過ごす時間がたくさんありました。誰かに気を遣うこともなく、予定に縛られることもなく、ただ自分のペースで歩き、食べ、感じる。それがこんなにも心地よく、自由で、満たされるものになるなんて、正直、思ってもいませんでした。がんの治療を経て、何かをあきらめかけていた私にとって、この“ひとり旅”はまさに、心を解き放つ時間でした。がんばってきた自分をいたわり、認め、ねぎらう。そして、もう一度前を向いて歩きだすための、大切な“儀礼”のような旅だったと思います。
旅の終わりには、不思議と“さみしさ”ではなく“満たされた気持ち”でした。自分の力でここまで来られたという実感。そして自分自身を見つめ直せた時間の余韻でした。「また旅に出よう」そう自然に思えたことが、この旅が私にもたらしてくれたなによりの収穫だったのかもしれません。
旅は、ただ遠くへ行くことだけが目的ではなく、“自分の心に会いに行く”ことなのかもしれません。誰かと一緒の旅ももちろん素敵ですが、ときには、“自分のためだけの旅”も、きっと必要だと思います。不安はあって当然。けれどその扉をそっと開けてみたら治療でこわばり、張りつめていた心が、ゆっくりと、でも確かにほぐれていく。そんな体験が、きっと待っていると思います。
もし、いま「ひとりで旅に出てみたいけれど…」と不安に感じている方がいたら、「大丈夫。あなたにも、また旅に出る日がきっとやってきますよ」とお伝えしたいです。そしてその旅は、きっと想像している以上に、あなた自身を励まし、癒し、そっと背中を押してくれるものになるはずだと。
私にとっての“ひとり旅”は、がんを経験した《いまのわたし》を受けとめそしてこれからも自分らしく歩んでいくための、大切な“はじめの一歩”になりました。私は第二の故郷が海外だったので海外ひとり旅を選びましたが、国内での一泊旅行でも、きっと《自分をいたわる旅》のはじめの一歩になるのではないかなと思います。
※本コラムコーナーでは「ピンクリボンのお宿」冊子に過去掲載したコラムを再編集し、ご紹介しています。
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